ctg1 個人監視被害のささやかな改善案と被害記録
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旧タイトル:防犯情報詐欺・集団ストーカー対策室

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1.150614- 被害改善努力 文章による証拠作成

hks_draft_Evidence_making_by_sentences, 2015.6.14, 2016.10.1

いじめの克服と防止案

< 注意 >

この記事も他の下書き記事と同じように書きかけで保留となっている記事ですで、あまりまとまっていない内容が含まれています。

また、この記事を書いたのは、私がインターネットでの情報収集を行っていなかった時期(2013年10月から2015年8月)です。当時はテレビやラジオを主な情報源としていましたので、現実とは異なる、間違った部分もあるかと思いますので注意してください。2016.8.17



目次

証拠文章作成は有効
テレビニュースで遺書の無効化工作が行われていた

被害改善努力には証拠文章作成が簡単で効果的

嫌がらせが行われる背景には、嫌がらせをしても加害者側に被害や問題がないという安心感があることが予想される

嫌がらせを自覚したとき、すでに個人監視被害者となっている

自殺でも他殺でも、簡単なメモであっても遺書と同等の扱いとなる

証拠文章作成の効果 子供のいじめによる死亡事件も格段に減少するのではないか

証拠文章作成の次は、その内容をいじめ加害者や学校・保護者、場合によっては直接警察に伝える

いじめ被害で暴力などあきらかな被害がでない場合 証拠文書が有効となる

いじめられっ子は言い返せないからいじめられるのであって、証拠文章をもって大人に協力を求めることなどできない

あきらめた後の世界 あきらめは終わりを意味しない

自殺に希望を感じる人を救う、あきらめとしての証拠文章作成

証拠文章作成による防犯効果 いじめ加害者を生涯苦しめる呪いとなる

なぜ今、いじめが問題とされるのか 監視被害をいじめと容認

証拠文章作成は有効

テレビニュースで遺書の無効化工作が行われていた

このページの記事を書いた後のテレビニュースで、兵庫県警が警察官自殺時の遺書を無視したといった内容が放送されていたことが分かりました。

警察がマスコミを使って、遺書を残しても無駄であるというイメージ付けを、市民に対して行ったということです。主犯は検察や裁判所、政府、さらには天皇財閥などの日本系金融マフィア、あるいは海外の世界金融マフィアの圧力だった可能性もあります。

もしも本当に遺書を残すことが無駄であるのならば、そもそもこのような報道は必要ありません。なぜこのような自殺の遺書が無効であるかのようなテレビニュースを放送させたかというと、それは当然、遺書が有効であるから、なるべく残させないようにしようとする意図があったはずです。

裁判における3大証拠といえば、書証・物証・人証です。証拠として非常に説得力の強い書証である遺書を残されては、警察としても、自由な内部殺人、警察官殺人ができないので困るということでしょう。

テレビニュースで過去の冤罪事件の裁判結果がくつがえされたといったことが、度々、放送されています。よく見るとその内容は何十年も前の事件であることも少なくありません。裁判の結果が変わった根拠となったのは、新たしく出てきた証拠です。

文章の証拠も、今は兵庫県警などに握りつぶされてしまうかもしれませんが、数年後、数十年後には正しく取り扱えるようになる可能性もあります。兵庫県警の警察官殺人であれば、その後も何人も殺されているとみられていますので、いずれ対処できるようになるはずです。

明るみに出てしまった犯罪がいつまでも追求を逃れることはできないでしょう。

遺書だけではありませんが、文章の証拠は書証として有効なことが改めて明らかとなった訳ですから、よりよい証拠となるような文書作成ができるよう心がけましょう。2016.10.1

被害改善努力には証拠文章作成が簡単で効果的

私は被害改善努力は被害者の責任であるとして、被害で困っていたり、我慢できないのであれば、何らかの努力をすべきだと主張しています。それでは、その被害改善努力とは具体的に何をするのが有効なのかと考えた場合、万が一の場合に決定的な証拠として絶大な効果を上げる可能性のある証拠文章作成による被害改善努力をお勧めします。

嫌がらせが行われる背景には、嫌がらせをしても加害者側に被害や問題がないという安心感があることが予想される

加害者側は自分たちの身の安全が保障されている、少なくとも自分の身に危険はないと判断して嫌がらせ行為に及んでいます。その偽りの安全神話を崩します。文章で証拠を残すことで、加害者が疑うことのなかった身の安全が、かなりの確率でそうとうな範囲に及んで脅かされることになります。

数行のメモでも、加害者の中で嫌がらせに懐疑的であった人たちは、嫌がらせ行為に歯止めをかけることが期待できます。

それは、この改善案と被害記録の文章そのものが、毎日、証明しつつある事実のひとつです。

嫌がらせを自覚したとき、すでに個人監視被害者となっている

個人監視被害問題では、被害者である個人は、監視犯罪者や観客的加害者などの集団から何らかの嫌がらせや不利益をこうむるような被害を受けた状態に、すでになっているはずです。すでに被害を受けている、その被害が個人監視被害であって、その被害によって被害者は個人監視被害者となっているのです。

自殺でも他殺でも、簡単なメモであっても遺書と同等の扱いとなる

正式な遺書は、記述者が生前、自分の意思で書き残したもののなかで、最新のものが有効な遺書と判断されるようです。しかし、事件・事故、自殺・他殺にかかわらず、何かしらの問題が起きた場合、生前のメモが発見あれた場合、報道などからして警察の捜査では遺書と同等の扱いを受けるようです。

物騒な話ですが、誰かに殺される可能性がある場合、簡単なメモが犯人逮捕の手がかりとなる可能性があります。その簡単なメモに、人物やその人物からの殺意などが判断できる内容が確認できれば、警察の捜査は格段に進展し、短い時間で容疑者を見つけ出すことでしょう。

証拠文章作成の効果 子供のいじめによる死亡事件も格段に減少するのではないか

ひどいいじめに苦しんでいる子供が、自殺を考えているとします。そして結果的に、何らかのかたちで命が奪われてしまった場合、そのときメモがあった場合となかった場合では、どのような違いが考えらるでしょうか。

メモがなかった場合、死亡原因究明の手がかりがないため、いじめた容疑者が発見されたとしても、決定的な証拠が不足しているため、いじめによる殺人と断定することが難しくなります。殺人者を逮捕する、未成年であれば補導することも難しくなります。

たいへん危険なことに、殺人者が野に放たれたままの状態となります。

それに引き換え、死亡に関する何らかの原因や関係する人物 についてのメモが残されていれば、いじめの容疑、さらには殺人の容疑が確定され殺人者を逮捕・補導し裁くことができます。殺人者を野に放つような危険も回避されます。

いじめは集団が個人に対して嫌がらせをすることから、殺人者がいたとしても個人を特定するにはいたらないのではないか、決定的な証拠とはならないのではないかと考える人もいるかもしれません。

しかし、いじめ集団でも集団であればリーダーとなる人間、主犯格の人間がいるはずです。いじめなどの現実的な行動をする集団、実際に何かをするようなグループというものにはリーダーがいるものです。何も目的がないような馴れ合いの集団は意思決定するようなリーダーがいなくても問題ありませんが、何かをする場合、最終的な判断や決定をする人物がいることが想定されます。

メモでは、そのリーダー、主犯格の人間が判別できるような記述が有効となるでしょう。可能であれば、いじめに参加した人間すべてが判別できるような名前・住所などの情報、それから、いじめ被害者との関係、いじめの具体的な内容やその動機、そのグループメンバー同士の関係性、リーダーや実行犯などの役割などを明記したメモとするのがよいでしょう。

次に、個々の被害についても記述も有効な証拠となります。何年の何月何日の何時に、どこで、どんな被害にあったか、具体的な嫌がらせや脅迫などの発言内容を可能な限り正確に、より多く書き記すことでメモの価値がより高まることでしょう。

そしてそのメモは確実に加害者を追い詰めることになるでしょう。

証拠文章作成の次は、その内容をいじめ加害者や学校・保護者、場合によっては直接警察に伝える

被害が特にひどい場合は直接警察に被害届を出すのが最も効果的でしょう。一時的にいじめ被害が悪化する危険は否定できませんが、その悪化した内容をもとにさらに被害を訴えていけば確実にいじめは防止できると思います。小さな痛みを恐れて、大きな危険を受け入れる必要はありません。被害者には勇気を出して欲しいと思います。

警察に被害届を出す場合、未成年が行うのは難しいでしょうから両親などの信頼できる保護者を頼るとよいでしょう。

実際に被害届を出す場合、被害内容を証明する必要があります。まったく怪我もしていないような状態で暴力を受けたことを証明するようなことは難しくなります。

また容疑者を特定する必要もあります。誰だか分からない人から被害を受けたと言われても、警察としても手のうちようがありません。暴力を日常的に受けているのであれば、その現場を警察官本人や監視カメラの映像などで証明するのが確実な方法でしょう。

いじめ被害で暴力などあきらかな被害がでない場合 証拠文書が有効となる

暴力や金銭の強要などの明確な犯罪、犯罪性の高い犯罪であれば、証拠も残りやすく対処自体はしやすいですが、そうでない場合、証拠文章が力を発揮します。

いじめの証拠となる文章がある程度、説得力のある段階まで作成できたら、保護者や学校・相談施設などに協力を求めるのが賢明でしょう。

証拠文章をいじめグループのメンバーの目のつく所に置いたりしても、ある程度の抑止効果は期待できますが、さらなる被害の悪化をもたらす危険もあります。

しかし、いじめ被害の事実を知る人間は、被害者と加害者であるいじめグループのメンバーだけですから、どのような方法で、どういう手順を踏んでも、いつかは証拠文章の存在と内容がいじめグループにも知られることになります。

結果的として、どうせ知られるのであれば、はじめから協力がえられるであろう人に協力を求めるのが賢明でしょう。

いじめられっ子は言い返せないからいじめられるのであって、証拠文章をもって大人に協力を求めることなどできない

積極的に暴力を振るうようないじめではなく、消極的に無視するようないじめの場合、いじめ被害者も不満を表しにくいことでしょう。無視される程度であれば、すぐに殺される訳でもなく、その無視を被害者がさらに無視すればすんでしまいそうな気もします。

しかし、自殺を考えるような、ひどいいじめが起こっているにもかかわらず誰にも言い出せない、協力を求めることができない状態となっている場合、そのような場合でも、証拠文書作成は有効な解決手段となります。

自殺が起こってしまったような最悪の場合、残された家族や学校は、証拠文章を元に真実の究明を行うことができます。子供のいじめに限らず、自殺を止めるための証拠文書作成であり、そのための改善案と被害記録ではりますが、起こってしまった自殺を取り消して、死者をよみがえらせるようなことは誰にもできません。

どうしても自殺だけは避けて欲しいですが、本人の意思とはかかわらずに命を失ってしまうこともあるかもしれません。そのときは、証拠文章が残された家族や周囲の人間を救う効果もあります。わが子が殺されたにもかかわらず、証拠文章がないばかりに、何もできないという最悪の状況は避けられます。

自殺について触れると、暗に自殺を容認しているような印象を与えかねませんので、自殺を防ぐ方法としての証拠文章の価値を示しておきます。

残念ながら証拠文章がもっとも脚光を浴び、真価を発揮するのはいじめによる問題発生後のこととなります。事件や事故が起こった後に証拠としての価値を決定的なものとします。しかし、その前に、その証拠文書とその存在が被害者に与える影響があります。

あきらめた後の世界 あきらめは終わりを意味しない

何かをあきらめることはよくあることかと思いますが、あきらめた後も人生は続きます。あきらめることは問題の解消を意味しているように思える場合が多いかと思いますが、実際はそうでもありません。

あきらめた後もそのことと完全にかかわりを絶つということは難しいでしょう。あきらめたことを後悔したり、よかったのだと納得してみたり、人は様々なことを考えることでしょう。あきらめた事や物から離れてみても、その記憶自体は残ります。完全に思い出さないという境地にまで達することができる人はなかなかいないと思います。

しかし、あきらめるというこは、それでよいのだと思います。人は何かをあきらめ、その記憶を持ちながら生きていくものです。そして、あきらめたその先に、あきらめる前には気付かなかったもの、新たな世界をみることでしょう。あきらめることは次の新たなる世界への扉を開けるきっかけとなるのが実際の人生のようです。

自殺に希望を感じる人を救う、あきらめとしての証拠文章作成

証拠文章作成は暗に自殺を肯定しているのだ、結果的に自殺を増やす可能性がある、などといった非難を浴びることがなくもないかと思いますが、実際は逆のことが起こるはずです。

いじめに苦しみ自殺に希望を見出すような人は、人生をあきらめかけた状態にあるといえます。その人が証拠文章を作成するとき、そのあきらめが、いじめ被害者に新たな世界を見せることでしょう。

人生をなかばあきらめた人が、証拠文章作成で客観的に自分のおかれた現状やそれまでの自分の人生を振り返るとき、その人はそれまでとは違うあらたな世界、自分が生き続ける可能性のある未来を見出す可能性があります。

いじめ被害者が自分を殺そうとしているいじめや、それを行っている人間について客観的に見直すことができたとすれば、その理不尽さに気付いたり、自殺とは違う解決方法を思いつくきっかけとなるはずです。

それでも自殺の意思が固いような人もいるかもしれません。そのような人が証拠文書を残す場合、その作成目的は、自分の死後、いじめ加害者が裁きを受け苦しむようなことを期待した報復行為の一種ということができるでしょう。自分も死ぬが、自分をいじめた人間も苦しむべきだ、といったような考え方をした結果として文書を作成するずです。

いじめ被害者が人生をあきらめ、自殺の前に、加害者への報復行為として証拠文書を残すとき、その被害者はそれまでとは違う感覚を持つことでしょう。この証拠文書があれば加害者へ報復ができるということを知ったとき、被害者は単なる被害者から一歩成長し、報復できる能力をもった存在へと力が強化されたことを実感するはずです。そのような、自分が力を持っているという意識は、自己への信頼や自信回復につながり、結果的に自殺を防止する助けとなることが期待できます。

あきらめを経験した人は、あきらめることで成長し、あらたな世界を再び生きることができるはずです。

証拠文章作成による防犯効果 いじめ加害者を生涯苦しめる呪いとなる

あきらめについての少々情緒的な話の後に、すぐに現実的な話に戻ることになりますが、いじめ被害によって自殺が起こってしまった後、残された者はどうすればよいのか、何ができるのかと考えました。そして、証拠文章によるひとつの強力な報復行為が浮かびました。

いじめで自殺が起こった場合、警察は事件である可能性を考慮した捜査を行います。警察は治安を維持する警察機構の役割として、自殺の原因が事故なのか何者かの犯行による事件なのかを調べることになります。

捜査の結果がどうであれ、生徒・児童の自殺は大きな問題であるため新聞、場合によってはテレビでも報道されることになります。そして、この報道内容は日本社会に対して公式に発表された報道内容として、われわれの発信する情報や意見などよりも、高い信頼性を持つものです。

自殺被害者の遺族が、無実の家族の名誉を守るため、そうでなくとも加害者へ当然の報復行動に出ようとするとき、この報道が利用できます。これを最大限に利用することで、容疑者の人生を狂わせるような強力な呪いを、容疑者の生涯に渡ってかけ続けることができます。

その呪いとは、事件の報道内容を容疑者の関係者へ連絡し続けることです。学生であれば、進学の際に進学予定の学校関係者へ、就職の際であれば会社やその組織の関係者、結婚の際にはその家族・親戚へと、延々と自殺へ追い込んだ容疑を知らせ続けることで、容疑者の社会的信頼を低下させ続けることができます。

特に、受験合格後や就職内定後、婚約・結納がすんだ後に連絡した場合、それらの成功を無に帰するような強力な効果を発生する可能性があります。

幼少期や学生時代の行動というのは、本能的な行動も多く、その人の本質的な性格、人となりを表す情報として扱われることがあります。自殺被害者の遺族は、その被害や容疑者の容疑の度合いに応じて、自殺容疑を関係者へ連絡し続けることができます。

実際に、そのようなことをするのは、過剰な報復行為であって、やるべきではないと思います。このような事態の可能性は、いじめの加害者であることがが疑われる、あるいは素行の悪い生徒・児童などに対して、ちょっとした映画やドラマなどのような映像作品を通して認識させる程度の対応が現実的でしょう。学校などで生徒・児童全員に警告として、この自殺後一生報復され人生を狂わされるような事態を知らしめるドラマなどを見せてしまうというのは、少々やり過ぎのような気もします。

しかし、実際に生徒・児童の全員にそのような映像作品を見せた場合の抑止効果は絶大であろうことが予想されます。私が生徒や児童であったら、やはり見たくはありませんが、いじめや差別などが極端にひどい場合は、こういった手段もあるのではないかという提案です。やり返されないことを前提に、いじめを行っているような卑怯者が肝を冷やす姿が目に浮かびはしますが。

今現在、世界はIT革命後の世界であるためインターネットで情報を確認することができます。被害者遺族のもたらす容疑者の情報が事実であることが、連絡を受けた関係者自身によって確認されてしまうようなことが起こる可能性はあります。

なぜ今、いじめが問題とされるのか 監視被害をいじめと容認

司馬遼太郎のアメリカ素描という本のなかで、アメリカの移民の歴史をごく簡単に、「いじめ史」と表現している部分があります。いくらアメリカが自由の国であっても、、移民としてやってきた人たちは、近所の人たちからすれば、引っ越してきた他人にすぎません。はじめのうちはアメリカ文化を理解しないよそ者として、遠くへ引越した人が受けるような誤解や差別などを受けていたといった事実を表現した言葉です。人の少ない、よほどの田舎でもない限り、引っ越してきた人が無条件に歓迎されるということはなく、よそ者として警戒されるのが一般的な人々の対応なのでしょう。

司馬遼太郎の文章にはからりとした響きがあり、それが日本人には心地よいものなのではないかと思いますが、英語などに翻訳するとき、翻訳が難しく、それが抜け落ちてしまうようで、海外からの評価があまり上がらなかったというような話も聞いたことがあります。

しかし、私はこのからりとした「いじめ史」という言葉に、個人監視被害のささやかな改善案と被害記録の真実を直観しました。この改善案と被害記録は、簡単に言ってしまえば、「いじめ史」そのものです。いじめは口語的表現ですので、文語的に置き換えるとすれば、差別ということになるのでしょうか。この改善案と被害記録はいじめ差別の改善努力の歴史というのが実態と言えるでしょう。

そのいじめ差別改善史として、今後は、後世のために被害を記録するとともにいじめ差別改善についても力を入れて取り組んでいきたいと思います。2015.6.14

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