HKS魚拓

集団いじめの心理と自発的隷従論

加藤周一の「夕陽妄語 1984~1991」の「いじめ流行」の記事より引用


(引用開始)

弱い者いじめの主体は、また、集団でもあり得る。集団対個人、あるいは多数派対少数派。
あたえられた集団内部での多数派は、彼らと対立する個人ないし少数派を、「みんなでいじめる」。その場合には、いじめの行動そのものによって、彼ら(多数派)の仲間意識が強化される。いじめは、集団の全体ではなくていじめ仲間の、団結の手段になるだろう。

彼らがほかの弱い集団をいじめるときには、そのことが、彼ら自身の集団内部での少数派に対する圧力としても作用する。対外的な闘争は、戦場の軍隊の場合に典型的なように、集団全体の団結を要求し、その団結は多数派が少数派を吸収する形で実現されるからである。

ムラの多数派が彼らの好まぬ個人を追い出す「ムラ八部」は、集団的弱いものいじめの極端な形式である。会社のなかで、大多数の社員と意見や趣味や行動様式を異にする個人を仲間はずれにするのは、その日常的な形式であろう。議会での多数派が少数派に対して傲慢な態度をとるのも、集団的いじめの一種である。

このような集団的いじめは、いじめる側により、集団全体の名において、正当化されることが多い。すなわち、ムラのため、会社のため、国家のために、ムラまたは会社または国家を代表する—と自ら称する多数派がいじめるのである。

多数派が集団を代表するという考え方は、もちろん、多数決原理とは違う。多数決原理は集団内部での意見の多様性を前提とするが、この考え方は、集団内部での意見の一致を理想とし、正常とし、当然の事とする。したがって少数意見の存在は、悪であり、異常であり、事故でなければならない。しかもそこには、集団に超越する価値の基準がない。集団はそのまま価値とみなされ、集団を代表する多数派は、多数派であるがゆえに正しいということになる。このような集団から成る社会では、集団的いじめが普及し、日常化し、正常化されないまでも批判されないはずである。

(引用終わり)


この記事を読み、日本には特に集団ストーカーシステムが運用しやすい精神土壌が昔からあったのかもしれないと考えさせられました。それと、私は集団ストーカーに関与していると確実に分かっている組織(軍・諜報機関・警察・カルト宗教etc...)を見たとき、ある事に気付きました。

軍・諜報機関・警察・カルト宗教…。これらに共通するのは自己意思よりも上部の命令を優先する人間の集合体という事です。技術レベルや目的、コスチュームが違うだけです。

極端な話、これらの人間は命令(プログラム)に従っているだけなので、仮に組織の上層部が今までとは全く異なる命令を出してもただそれに従うだけでしょう。

現在の日本は、音楽業界をはじめロボット型人間が量産されています。

集団に対して「NO!」といえる日本人が増えないと、この国は永遠に植民地のままでしょう。
また、そのようにはっきりと自らの頭で考え意思表示をする人間が増えない限り集団ストーカーという集団犯罪も永久になくならないでしょう。



自発的隷従論
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