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太平洋問題調査会(IPR) ロックフェラー、渋沢栄一

太平洋問題調査会:略称IPR。1925年ホノルルでの民間研究機関・学者の国際会議で設立された民間研究討論機関。アメリカを中心に太平洋の14か国(イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、オランダ、インド、ソ連、フィリピン、日本、中国、後のインドネシアとパキスタン)で構成、ただしソ連は戦後、中国は中国革命後は不参加。第二次世界大戦終了まではその研究業績・政策立案は参加諸国の政策に寄与したが(ことに連合国の対日占領政策などで)、そのため戦後反動期にIPR関係者はマッカーシズムの攻撃を受け、その醵金(きょきん)者も減り、IPRの活動そのものも衰退したが、いまも存続し、機関誌『パシフィック・アフェアーズ』(季刊)は出ている。[陸井三郎] 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)


太平洋問題調査会 Wikipedia

「真珠湾攻撃」の背後で暗躍した太平洋問題調査会
http://www.rui.jp/ruinet.html?c=400&i=200&m=211142
タビィストックがIPRのすべての出版物を起草している。

金貸し勢力のスパイの証言(19)~山本五十六海軍大将の正体は世界秘密結社メンバー~
http://www.kanekashi.com/blog/2016/01/4696.html

■太平洋問題調査会(IPR)をめぐる因縁
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k8/181014.htm

 初期日本IPRを背負ったのは日本近代資本主義の父・渋沢栄一
(評議委員会会長)、井上準之介(初代理事長)、そして新渡戸稲
造(二代目理事長)である。その発祥にYMCAの存在があったこ
ともあり、活動の中心は新渡戸の一高時代に影響を受けた新渡戸人
脈の高木八尺(一時クエーカー)、前田多門(聖公会からクエーカ
ー)、鶴見祐輔(晩年クエーカー)、高柳賢三、那須皓らに委ねら
れることになる。

 樺山愛輔も第3回京都会議に参加しており、樺山の弟子とも言え
る松本重治や牛場友彦、樺山の女婿の白州次郎がIPRに送りこま
れた。IPRは新渡戸、渋沢、樺山の弟子達の集会場所のような存
在となっていた。
 
 樺山も満州事変直後に険悪となった日米関係の修正を図るべく渡
米、訪問先には米国エスタブリッシュメントが一同に集まるボヘミ
アン・クラブも含まれていた。また、グルーを通じて米国金融史に
輝かしい実績を残したモルガン家とつながる。グルー自身がモルガ
ン家と姻戚関係があり、グルーの妻アリスの大叔父は黒船を率いて
来航したペリー提督にあたる。しかも、井上準之助亡き後、モルガ
ン家が築いたJ・P・モルガンの社史に残る名会長として知られる
トマス・ラモントとの親交を引き継いだのも樺山であり、戦後樺山
の長男である丑二はモルガン銀行東京支店顧問に就任している。
 
 樺山の人脈はロックフェラー家にも及ぶ。樺山は薩摩の松方正義
の孫にあたる松本が携わった国際文化会館事業を通じてジョン・D
・ロックフェラー三世と親密な関係になる。松本とロックフェラー
三世はIPRで出会う。そもそもIPRはロックフェラー財団がス
ポンサーとして名を連ねており、その意味ではロックフェラー家が
今なお深く関与するトライラテラル・コミッションやウィリアムズ
バーグ会議の前身とも言える。このロックフェラー三世人脈は後に
吉田茂へも引き継がれることになる。

(引用終わり)


「日支闘争計画書の存在を知らない大多数の日本人は危険である」
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-260.html
●日中・日米開戦工作

 ゾルゲ事件というのは、日米戦争開始前、日本政府の機密事項や日本の国内情勢、駐日ドイツ大使館の機密などをソ連に通報したかどで、昭和16(1941)年1月に日本国内に潜伏する売国奴が一斉に摘発され、その首魁リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実(ほつみ)が処刑された有名なスパイ事件である。ゾルゲと尾崎以外にも、犬養健(衆議院議員)、西園寺公一(前外務省嘱託)、中西功(満鉄調査部、のち参議院議員)らが検挙された。

 戦前に愛国者が中心になって創設したユダヤ問題研究機関の国際政経学会に参画し、このゾルゲ事件を目の当たりにし、徹底究明された方がいらっしゃる。右翼の巨頭・頭山満の師匠にあたる愛国陣営の総帥・末永節先生の秘書を務めていた渡部悌治翁である。
 翁の著書『攘夷の流れ』(私家本、平成4年)を読むと、そこには次のような背景があったと記されている。
「西紀1918(大正7)年1月3日より約1カ月前の9月19日、モスクワにおいてユダヤとボリシェビーキとの合同会議が開かれた際、そこで決議された事項の中に、日支を闘争に導くための日支闘争計画案なるものがあった。その内容を要約すると、直ちに日本と中国との内部破壊を図るとともに、中国に反日運動を起こさせ、それを日支の武力闘争にまで発展させ、それに対してソ連と特にアメリカとを干渉させる戦争にまで発展させて日本を倒し、それとともに欧州に社会革命を起こさせる第2次の世界大戦を計画するというものであった」(76ページ)

 1918年1月3日はドイツがアメリカに講和を申し入れた日であり、連合軍とドイツがフランスのコンピエーニュで休戦協定を締結し、第1次世界大戦が終結したのは、その約1カ月後の11月11日のことであるから、9月19日にはまだ戦争は終わっていない。そのときすでに次の世界大戦が計画されていたというのである。実に日米開戦をさかのぼること23年前のことである。

 その後の推移は、言うまでもなく、歴史が示すとおりであるが、では、この「日支闘争計画」案の布石は具体的にどのように打たれていったのだろうか。渡部翁によれば、その実施機関としてまず太平洋問題調査会(IPR)が設立されたという。

『上海時代(上)』(松本重治著、中公新書)には、IPRの第1回会議が大正14(1925)年に、第2回会議が昭和2年に、いずれもハワイのホノルルで開催されたと書かれている。日支および日米開戦の実施計画を練り上げる日米英中を中心とした売国奴たちによる作戦会議である。この2度の会議に、日本からは沢柳政太郎が団長として、ほかに鶴見祐輔、高石真五郎、高木八尺らが出席したが、年表をみると、その間の大正15年4月6日に日本支部が設立されたことがわかる。昭和4年には、京都で3回目の会議が行なわれることになった。その様子を『上海時代』から引用しておこう。

「会議は都ホテルで開催されたが、招請された国々は、アメリカ、イギリス、中国、カナダのほかに、ハワイ、フィリピンのグループもあり、ソ連、フランスのオブザーヴァーもいた。代表の一人小松喬さんが、会議のロジスティックスすなわち、宿泊、設営一般の事務をとりしきっておられたが、会議の内容の実体たるプログラム面の仕事の采配をした幹事役は、同じ代表の高木先生と斎藤惣一さん(日本YMCA総主事)とであった。日本代表は、団長が新渡戸稲造先生、それに松岡洋右、頭本元貞、岩本裕吉、金井清、前田多門、鶴見祐輔、高柳賢三、高石真五郎、信夫淳平、蝋山政道、松田竹千代(まだ政治家にならないで、大阪のセツルメントをやっていた社会福祉事業家として、すでに有名になっていた)、それから那須皓その他の諸先輩であった。日本代表団のセクレタリーとしては、松方三郎、浦松佐美太郎、私の三人が選ばれ、その一段下積みの仕事、すなわち、ステンシル・ボーイとして謄写版刷りをやっていたのが前田陽一、岩永信吉、斎藤勇一の諸君であった。どういう意味か、白洲次郎君が、正式の代表ではなかったが、友人関係にあった英国代表の数人を接待しながら、彼らと話をしていたように覚えている」(23~24ページ)

 ちなみに冒頭でご紹介した日米欧三極委員会は、昨今の極東情勢を考える(新たな日支・日米闘争計画が発動されているように思われる)と、太平洋問題調査会の現代版と見てほぼ間違いないだろう。

(引用終わり)

日中戦争
https://sites.google.com/site/uranenpyou/home/nichi-chuu-sensou

謀略に陥った日中戦争

1919年 モスクワでボリシェビキとユダヤの合同会議が開かれ、日支闘争計画案が採択される。
その内容は次の通り。(渡部梯治『ユダヤは日本に何をしたか』成甲書房より)
1.日本と支那の内部破壊を図る。
2.支那に反日運動を起こさせる。
3.日支武力闘争から、ソ連・米国が干渉する戦争へ発展させて日本を倒す。
4.欧州に社会革命を起こさせる第二次世界大戦を計画する。
1924年 ソ連は中国に国民党の軍官学校を設立させ、校長に蒋介石を任命する。
1925年 モスクワに中国人学生のための中山大学を設立。毎年数百名の共産主義者が中国へ送り返され、コミンテルンの指揮下で反日運動を煽動した。

コミンテルンとは、ジュゼッペ・マッチーニによる青年運動の流れを汲む、世界に革命を広げるための国際的共産主義組織である。つまり、中国の覇権を争った国民党も共産党も、ともにコミンテルンによって設立されたわけである。

1937年 日中戦争の発端となった盧溝橋事件が起きる。
1939年 興亜院政務部が作成した、「盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令」という資料が残っている。
1.あくまで局地解決を避け、日支全面衝突に導くこと。
2.あらゆる手段を利用し、局地解決や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切る要人は抹殺すること。
3.下層民衆を煽動して、国民政府を対日戦争開始に追い詰めること。
4.対日ボイコットを拡大し、日本を援助する国はボイコットで威嚇すること。
5.紅軍は国民政府軍と協力する一方、パルチザン的行動に出ること。
6.共産党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵士及び大衆を獲得し、国民を凌駕する党勢に達すること。
こう見ると、日中戦争はコミンテルンの策略の結果であったことは明らかである。

(引用おわり)

アジア主義者の頭山満関係者が書いた書籍なので、注意が必要ですが、興味深くもありました。頭山満の背後はマヨさんのいうD勢力であり、太平洋問題調査会はE勢力のモノなのでしょう。

渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図
https://eiichi.shibusawa.or.jp/namechangecharts/histories/view/460
日本最初の探偵設立にも、渋沢栄一が関与しています。

●「渋沢栄一とロックフェラーの関係」(EJ第3841号)
http://electronic-journal.seesaa.net/article/402658713.html
 太平洋戦争を経験している日本人は「戦前」と「戦後」を分け
て考える傾向があります。このように分けてしまうと、「戦前」
と「戦後」は断絶しているように感じるものですが、実は、「戦
前」と「戦後」は連続しているのです。
 とくに実質的な「王」である日銀総裁の人脈は、戦前・戦後を
通じて完全につながっているのです。ここまで、松方正義、高橋
是清、井上準之助、池田成彬について書いてきましたが、これら
の4人は、覇権国の財閥──ロスチャイルド、クーン・ローブ、
モルガン、ロックフェラーと密接な繋がりを持っているのです。

(引用終わり)

渋沢家、岩崎家、永井家、笹川人脈などは、円卓会議人脈と日本の裏権力を繋いでいます。新しいお札と、太平洋問題調査会(IPR)人脈がの関係興味深い。

かつての太平洋問題調査会(IPR)と、日米欧三極委員会が同じ役割を果たしているという説も興味深いです。これらのメンバーはフリーメイソンとも関係が深いです。やはり、大戦中から現在まで、日本は両建てで操られていたという感が否めません。

現在は、人口コロナウイルスを利用してエレクトロ・ポリティック・システム(電子的政治支配)を広げている様に見えます。戦争と同じくマッチポンプなので、ご注意ください。

渋沢栄一 Wikipedia

ロックフェラーと近代日本、そしてTIとの関係
blog-entry-261.html

日本は今もって米国と交戦状態であり、同時に内戦中!
blog-entry-318.html
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