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所謂「世間」というもの その5 被害認知誤誘導としての「正常性バイアス・確証バイアス」の罠

・所謂「世間」というもの その5 被害認知誤誘導としての「正常性バイアス・確証バイアス」の罠
子曰 邦有道危言危行 邦無道危行言孫  (論語 憲問編)

子曰はく、邦に道有らば言を危(はげ)しくし、行を危しくす。邦に道なくば行は危しくするも、言は孫(したが)ふ。 

国に政道が行われている間は、忌憚のない言論や活動も共に結構だ。但し国に政道がなければ、思い切った活動はともかく、言論は世間的に留意されねばならない。(さもなくば、身を危うくする。)


日頃ほとんど引用もしないから、偶に古典ぐらいは引いておく。(書き下しと訳は無耳法師の恣意的文責による。)

問題は「邦無道」にも関わらず、言論しか活動の余地がない場合なのである。それはアクティブで且つ留意が求められる、矛盾・背理的ダブルバインド状況だということだ。

街宣やポスティングにせよ、要は「言論活動」(言論=活動)である。
やればやるほど、袋小路の藪の中を彷徨わぬよう、その方法も内容も抜本的に再検討すべきであろう。

善かれと為すことで、思わぬ足を掬われる。端的に怪しい前提で事が行われているからだ。

まずは「言論活動」それ自体が目的ではない、ということだ。苟も単なる自己満足や気休めに座り込んではならない。

而に相変わらず、その言論内容も被害手口論にのみ終始しているが。

ましてや、通底する党派性・宗派性に都合よく利用されてはならない。それらは結局加害側であり、その相互マッチポンプ機能にあざとく使われるだけだからだ。
却って被害そのものを拗らせ、その立場を更に悪くする。

最も怪しいのは、その目的論の不在である。それは戦略も戦術も、ともに不在であることをも意味する。

結果、活動自体が自己目的化し、自己完結している。何より、その自己目的化する活動に埋没して、活動する本人(自己)の立ち位置を誰も計ろうとはしないことだ。

忌憚ない所、それは「世間」的にはかなり危険に観得る。加害側が却ってそれを逆捩じに、風評・印象工作を「上書き」する事態が見て取れるからだ。



加害側(偽被害者・工作員)は現在この犯罪が、あたかも犯罪としての刑法要件を満たさぬかの如く、常に誤誘導する。無論、解決を阻害する為だ。

奴等やその紐付・日和見被害者どもが、それをその党派性や宗派性にとって都合のいい規定枠として、集まる被害者を洗脳下に組み込み、堂々巡りを強いている。
奴等にとって、寧ろ「集スト」こそ飯の種に他ならないからだ。

それは自らの党派性・宗派性に使い勝手のいい、旗振り要員(兵隊)にする為でもある。だが何より一番の目的は、被害解決不能のバイアスを認知的に自他に強制する為だ。

そのくせ、この被害が「犯罪」だと街宣やポスティングで主張するのだから、根底に於いて齟齬・矛盾した話なのである。
或いは、方向違いの迂遠で実現性希薄な法改正にミスリードしたりする。

というより、その齟齬・矛盾も意図的に仕込んでいるのだが。それは、被害者を抜き差しならない、背理的なダブルバインドに嵌める為だからだ。


ダブルバインドの特徴は、何より罠として、相克・背理・矛盾した「二重拘束」状態に、対象者を自ら落とし込めることにある。
常にその経路を、心理的操作で誘導しながら。

謂わば、作為されたその矛盾・背理した枠内(認知バイアス)での、その矛盾・背理を閑却させた「正常性バイアス」の刷り込みであり、亦それ以外の被害論点を排除する「確証バイアス」の狭隘に、被害者を意図的に誘導し閉じ込めるのである。
まさに背理的袋小路以外の選択肢を与えない、ダブルバインド状況たる所以である。

(*共にもともと心理学用語である。広く「認知バイアス」が内包するコンセプトだ。「正常性バイアス」とは、矛盾や齟齬、都合の悪い事物・情報、更には不都合な状況認識を閑却し、却って自分だけはそうではないと度外視する認知バイアスだ。「確証バイアス」とは、予定された概念に即した要素のみ選択帰納させる、心理的経路の誘導偏向である。両者は相似・継続した概念であることが解る。つまりこれらの「認知バイアス」は、慣性による行動パターンの形成とそれに沿った誘導操作を刷り込む、認知に於ける偏向的差異の形成にある。他にも幾つかの関連するコンセプトがあるが、その多くは偏向したバイアスの一貫性維持に即している。焦点を絞る為、他は割愛する。哲学・論理学的には総じて「帰納法の誤謬」の問題であり、陳腐な憶見(ドグサ)と詭弁の類型見本にすぎない。「認知バイアス」に於けるこれら心理学的各コンセプトとは、本来「観測者」(心理学者)の指標的バイアスなのである。つまり他者を社会的に裁断・排除する制度的特権と、その妥当性・アリバイを担保する為ではないのか。そこには、その独断的ドグマとイデオロギー性(虚偽性)の隠蔽がある。精神医学臨床も含めて、どれだけの被害者が今までその罠(冤病)に落ちたのか。今はカールポパーが言うように反証不能なものは、偽命題なのであるとだけ述べておく。而に殊更その心理学的文脈を借りるのも、それ自体が奴等が作為・誘導する加害メンタリティーだからだ。そもそも多くの被害者は、その誘導自体が「アンカリング」であることも知らない。「アンカリング」とは、何も「集スト」特有の用語・コンセプトではない。そもそも認知心理学や社会心理学の用語なのである。効果としてある事象への評価が、既に或いは現に、ヒントとして与えられた情報に引きずられることを意味する。故に「アンカリング効果」とも言う。謂わば実態として、特定の「正常性バイアス・確証バイアス」に刷り込み・誘導・固定するために作為する、心理操作(マインドコントロール)の技法的総称だ。つまり加害側の認知バイアスそのものに即している。奴等の加害の意識的刷り込みも、卑劣な心理的手口として、そのマニュアル応用にすぎない。奴等の技法が常に一定・一律なのも、このマニュアルの存在による。故にこそ、今挙げたコンセプト解析も、必ずしも奴等のマニュアル通りの説明的範疇にはない。「集スト」認知の為に、右から演繹的に解析した概念である。因みに、ネット上のしかも「集スト」関連情報のみを拾う、狭隘な知見(認知バイアス)では却ってそれに誤誘導される。一つのバイアスでは一見隘路に嵌るアポイアでも、他のバイアスでは容易に解れる(ほぐれる)ことが多々ある。つまりその隘路こそ、設えられた認知に於ける「正常性バイアス・確証バイアス」の罠なのだが。換言して、何事もそのまま鵜呑みにしないことなのである。亦できるわけがない。「鵜呑み」とは、受け取り手の理解の差異を無視した素朴実在論的反映説であり、それ自体狭隘な「認知バイアス」であることを知らない。それどころか、「認知バイアス」そのものの存在に、素朴にも無知なのである。既製品のような予定調和の都合のいい「答え」など、どこにも存在しない。少なくとも所与の誘導的枠内で、自販機中のジュースのようにネットのどこかを押せば、しかも無償で出てくる安易なものではない。主体的・遡及的に自分で「勉強」(理解)する過程で、労苦の果て自ずから開顕してくるものなのである。右、自戒を含めて述べておく。ほとんどの被害者は、被害解決の「答え」とは、誰かから依存的に宛がわれる無償の既製品だと思っている。それこそ錯誤であり、既に奴等の術中(ミスリード)にある証拠だ。情報の操作的支配と愚民化政策は集ストの構造的側面である。今その罠を外すために、その錯誤の経路を自分なりに解析している。)

その枠自体に疑念を持つ者には、内ゲバ・いじめと「偽被害者」のレッテル貼りによる、排除が待っていることは、言うまでもない。
当の偽被害者本人に、順逆逆様のすり替えに嵌められるのだ。



「正常性バイアス・確証バイアス」の罠、換言して一番の躓きの石は、他ならぬ「ストーカー規制法」だとだけ言っておく。

「集スト」とは、所謂ストーキング(つきまとい)ではないからだ。それは風評や住居侵入など、他の被害属性を勘案すれば瞭然な話だ。

正確には「つきまとい」をも一つの示威的威圧(害悪の告知)の手段・手口として含む、一貫した「組織的嫌がらせ・ハラスメント」であり、集団的暴行・脅迫なのである。総じて法定の暴力行使に当たる。


そして最も重要なのはこの犯罪が、左右通底する統創カルト実権力(支配マイノリティー)による、「監視社会・警察国家」(日本人悉皆奴隷化社会)達成の方法論とされている点だ。

奴等はその為に、既に政府>警察機構をも支配している。それどころか、上から下まで社会構成の要(かなめ)凡そをだ。

事は多寡だか、刑法案件だけで終わるようなレベルの問題ではない。

(*このことはいずれ、纏めて別項で。錯誤の根底は、他ならぬ「集スト・テク犯」というコンセプト自体にある。或いはその理解・解釈の幅に於いて。因みにこのブログのタイトルは「組織的不法行為と闘うブログ」である。元来「不法行為」とは広く民法上の概念であり、ときに刑法上の「犯罪」をも包括する。「集スト」はそのカッコ内だ。そこには既にその含意がある。無耳法師自身も、便宜上「集スト」という用語は頻発する。もはや被害の固有名詞、不法行為の社会的概念だと心得るからだ。それは同じく不法行為の社会的概念である「パワハラ」と一様だ。同時に法的概念としては、別途に考えなければならないことは、過去ブログで前記する通りだ。それは「パワハラ」が法的概念としては別途、刑法各科条で充当要件を思科されるのと同様だ。まず以て充当する法的概念に当て嵌めての「集スト」と、所謂「ストーカー」とは一部分重なる属性はあるものの、全く要件として別罪科・別範疇に属する。その所以は本文で述べた通りだ。それは恐喝と脅迫が、別罪ながら一部重なる属性を持つのと同様である。紛らわしくも、その法的範疇の同一性を前提に、「恋愛目的云々」の是非自体がすでにミスリードなのである。その「紛らわしい」言葉の上でのレトリックが、右の二つの「認知バイアス」の誘導経路であることは言うまでもない。同時に共謀罪・テロ準備罪にも当たらない。殊更共謀罪を持ち出す輩は向こう側か、それに洗脳された連中である。これも共謀<集団という短絡的確証経路での、同じくレトリカルな「認知バイアス」の錯誤であろう。それは左手の人権擁護法案・ヘイト法同様に、右手からのマッチポンプの罠である。通底した相互作用で、ダブルバインドや後述するダブルスタンダードに嵌めるためだ。このことも別項で。)


而に端から認識の経路が、皮相的な「組織的つきまとい」としてのみ概念が偏向して限定され、それ以外の要素を閑却させる「正常性バイアス・確証バイアス」の罠として仕掛けられている。

最初からコンセプトのズレ(差異)で、その経路にミスリードされているのである。


その加害者特定にも、その作為的「認知バイアス」の刷り込みと「正常性バイアス・確証バイアス」の罠はまた顕著だが。



結果その経路で、被害者各位の「認知バイアス」(被害観)の大枠が誘導・形成されている。それでは背理的袋小路の隘路は当然なのである。それは意図的だ。

それは態と意図的に、各被害者をダブルバインドに落とし込む為なのである。その認知経路に乗せる為、偽被害者・工作員やその紐付・日和見連中(工作者)が、陰に陽に活動するのは言うまでもない。

ときに組織的に邪魔者を罠に掛け、巧みに排除しながら。その為には全くの偽装対立(虚偽の茶番)さえグループ内外で演出する。


ところで「正常性バイアス・確証バイアス」の罠に各被害者が陥るのは、却って他でもない。寧ろ人は必ず言動の一貫性を希求し、矛盾・背理を本能的(つまり心理的)に嫌うものだからだ。

だからこそ、刷り込まれたその規定的「大枠」(認知バイアス)の一貫性に沿ったものしか観えてこないし、また拾わないのである。矛盾・背理を本能的に避ける為に。

但し、それを徹底すればするほど、被害現実との拭い難い齟齬・矛盾や背理を、却って促進させる。つまりそれ自体が認知として背理的なのだが。
結果、抜き差しならない隘路(ダブルバインド)に身を置くことになる。

それは、その仕込まれた「大枠」自体を疑おうとはしないからだ。またそのようにアンカリング付けられているからだが。(則ちそう仕掛けるアンカーこそ、要注意人物だ。)

また敢えて疑うものは前記の如く、排除される。つまり、そのグループの党派性・宗派性に身を置く限り、それを避けることは不可能なのである。


最後には、被害認識自体が混乱し、遂には自壊するに至るだろう。それでは、まして世間(第三者)に説明・広報(街宣・ポスティング)など思いもよらないことになる。

寧ろその誤誘導の経路で、偽被害者・工作員やその紐付・日和見連中(工作者)が、右の「説明・広報」(街宣・ポスティング)を仕込むのである。
却って世間をも誤解させる目的で。

先に挙げた「言論活動」への怪しい作為的前提で、隘路の罠に誘う所以である。何より、その周知目的とやらが内容以前に曖昧なのである。


それに引っかかるのは、被害者自身が自己被害を歪んだバイアスでしか認識していないからだ。「迷いの中の分別は、是非ともに非なり」、と昔の禅僧は言った。蓋し至言であろう。

と謂うのも、それは総じて誤認だが、事実として一面正しい被害認識をも含んでいるからだ。寧ろポイントは、この被害構造それ自体への「理解」(解析)の問題なのである。


何度も言うが、見せることで隠し、隠すことで見せるものがある。そして、それ自体がダブルバインドの罠なのだ。

換言して「見せること」或いは「隠すこと」それ自体が、相手を罠に嵌める為の「確証バイアス」による誤誘導だということだ。

或いは隠す「真実」も顕す「虚偽」も、それ自身がその真偽の是非に関わらず、その為の経路に至る、ある種仮想のダミー効果の役割を担っている。
則ち「是非ともに非なり」たる所以である。

事実性そのものの真偽の是非は、ある意味誤誘導作用のツールとしてどうでもいいことなのだ。少なくとも、奴等加害サイドにとっては。

共に嵌めるべき、「迷いの中の分別」だからだ。

寧ろ「真実」を虚偽的に露呈した方が、世間的には有利だ。勝手に誤解してくれる。
謂わば、流すべき赤子(真実)を予め盥の中(虚偽)に仕込んで置くのである。

(*見せることで隠し、隠すことで見せる認識の背理的誤誘導は、遂には認識する現実世界そのものの懐疑性に至ることになる。すべては認知バイアスとして、「バーチャルリアリティー」(仮想現実)だということだ。この犯罪の根底には、この世界そのものの、ある種作為的虚構性が透けて見える。世人のほとんどは、おめでたい予定調和の確証に眠り込んでいるが。その嘘の切実さを痛感しているのは被害者だけだ。このレベルまで至ると、もはや心理学概念の借用では間に合わなくなる。この辺りは基礎論として、やはりボードリヤールの議論が難解だが参考になるだろう。さすがにこの辺りはいずれ別項にて。但しこの射程は、ある意味古典的な哲学命題なのである。)


誤認識による錯誤を避けるには、まず以て既成の党派性・宗派性によるバイアスを捨てることだ。誤誘導される、「正常性バイアス・確証バイアス」の顕著にして最なるものだからだ。

そして事実そのものと相手側の思考経路に即して解析することだ。その際、寧ろ現象や言説の矛盾・背理こそ、着目すべきポイントになる。

多くはそうなるべく、意図的に仕込まれている加害側の戦略・戦術的要点だからだ。自ずからその背景や意図も浮かび上がってくる。世間の裏にある、タブーや陰謀の実態として。


尚、被害者を誤誘導し、二重拘束の背理的ダブルバインドに乗せる為には、その連中自身(工作者)による「ダブルスタンダード」(二重基準)の意図的演出が不可欠なのだが。

まずは背理経路への誘導口として、関係する被害者を「二重基準」により洗脳・拘束する場面に導く為だ。

所謂「被害者で加害者」の両義的鵺的存在も、その意図的表徴なのである。
その正体の多くは党派性・宗派性による、確信犯の紐付・日和見の連中(工作者)であることも前記した。決して安易な裏切者(寝返被害者)などではない。

中には真正の「偽被害者・工作員」もいる。
それだけに緻密に計算された「二重基準」の演出技法と云える。


惟うにダブルスタンダード(二重基準)とは党派性や宗派性のエゴに基づいた、単に顧みて他を謂うが如き、姑息なご都合主義で終わるものではないだろう。
概念として自ずから演繹される、作用の広さと奥行きを持っているということだ。

広くは離間<分断<両建のスタンダードに文脈として依拠している。自らが両建を分断的に行使するのである。当然ながら、その作為はマッチポンプとして自ら機能させる。

その技法として、一つには意図的な両義性の作為(使い分け)なのである。相手を両建で煽って、混乱の喚起によりダブルバインド状況(離間>排除)に追い込むためだ。

「二重基準」も「二重拘束」も浅深こそあるものの、共に両義性の罠だからだ。

(*まずそこには態と自らを、不気味な正体不明の存在(両義性)に印象づける狙いもあるのだろう。示威的威圧の演出的一環だということだ。誰かを見せしめにして、その他を支配的に同調圧力を掛けて拘束するには、丁度いいスタンスだからだ。例えば正宗系紐付グループの党派性・宗派性を指弾するグループが、却って創価系紐付だったりする。無論のこと、逆も亦然りだが。これなど自分を棚に上げた、都合のいい「二重基準」の最たるものだ。必ずしもその論旨の妥当性が、当人の正当性を保証するものではない、いい見本である。所詮人は身贔屓と云ってしまえば、それまでだが。それだけに、当人らにとってそれは確信犯の所業なのである。よしんば目糞鼻糞の言いがかりでも、それにより外部に敵を置くことで、その傘下者(参加者というより紐付・日和見の内部的衆愚)をより拘束的に囲い込むことになるからだ。「二重基準」による、特権的に聖別された内部的正当性の保持と引き換えに。そして内部でもその「二重基準」が濫用される。そうなると何が是で何が非か、傘下者は常にそのリーダー(多くは偽被害者・工作員)の顔色・気分を、窺うようになる。それは両義性の作為(使い分け=両建)により、意図的に傘下者を混乱させる技法なのである。相反する「煽り」でその思考・判断を奪い、支配化に置く為だ。それは分断>離間工作の徹底として完結する。何より決定的なのは、事の是非・正邪一切が多くは「使い分け=両建」で、両義的に矛盾・撞着したリーダーの独断・独裁的判断に於いて、全て恣意的に裁量されるということだ。それを公平に判別する、外的一定基準が一切ないからだ。よしんば形式的にあっても、その「正確な解釈」はリーダー独りだけが、事実上判断可能の独占状態になっている。そのバイアス基準こそが、実はリーダー内面の秘められた党派性・宗派性のドグマと被害者救済の外面的一般論との、意図的差異・ズレで構成される作為的両義性により、ダブルバインドの二重拘束になっているからだ。これに依る恣意的なリーダーの「内面指導」(同調圧力)に対しては、もはや従順にその理不尽に服するしかない。そしてそのバイアス基準での、集団的「空気」に呪縛される。逆らう者は、恣意的に「偽被害者」や「統失」に認定作為されるだろう。つまり、どっかのカルト団体の「教義」マニュアル・取り扱いと、まさに同じ構造なのである。それは同時に支配構造でもある。その構造は正宗でも創価でも、或いは統一系や共産党どころか、極左から極右まで全て同一だ。おそらく、構成員も大方被るだろう。而してその経路がそれ自体、被害者自身を内外から縛る、ダブルバインドによる二重拘束(蟻地獄)の導入節になっていることが解るはずだ。その拘束性は、「リーダーを忠実に模倣せよ、且つリーダーを超える勿れ。」の背理的二重性(両義性)が基本だからだ。抜本的に、主体性ある真実の希求それ自体が、却って其処では虚偽(逸脱)になる。といって、被害の性質上それは自身が閑却できる問題ではない。そのくせ孤立化を懼れて、居場所だけは欲しいのである。それは単なるジレンマで終わらない。遂には自身が背理的存在(自己疎外)と化する羽目になる。実はダブルバインドの妙はそこにある。結果、無理やりでも篩に掛けられ、跡には従順な無思慮の兵隊だけがグループ内に残ることになる。そうでない者は「被害者で加害者」(紐付・日和見)の餌食になる。或いは「偽被害者」として排除されるばかりか、行きがかり上、抜き差しならぬダブルバインドの二重拘束性(両義性)に自滅することになる。嵌められたと真実に主張しても、既にそれさえ誰も信じてもらえないからだ。却ってそれを口実に、虚偽化された危ない「狼少年」(偽被害者・統失)に殊更印象操作・作為される。まさに、もがけばもがくほど落ちる「蟻地獄」だ。つまりダブルスタンダードとは、レッテル貼り<風評工作の技法的基礎でもある。それだけに、奴等お得意の善悪の是非や正邪の変換(すり替えと擦り付け)の詭弁的レトリックも、やはりここに基礎を置いている。心理的操作技法の総則なのである。それが文脈として、離間<分断<両建のスタンダードに即していることは、もはや言うまでもない。而して両建とは、通底してはじめて可能なのである。その枠内では、一切は茶番である。自分を救うものは、結局自分しかない。無条件で、決して人は人を救わないし、また救えないからだ。相互目的や相互利益の見極めもなしに、安易に他人に依存する所、結果は既に見得ているのである。中にはダブルバインドの蟻地獄に、被害者を落とした加害本人(蔭の張本人)がその救済者として顕れる、巧妙なマッチポンプ技法を示す者さえいる。ダブルスタンダードによる両義性=使い分けが、加害本人のアリバイと正当性を保証する、すり替え技法の逆応用である。総じてその技法を、「振り込み詐欺」のグループ演技と同様だと評した被害者がいるが同感である。無耳法師はその構造の一端を、順逆の役割で通底演技するA・B・C三支構造の仮設で示した。その通底関係は、一個の偽・紐付グループ内ばかりか、党派性・宗派性で分断する、各擬態対抗グループ団体間でも然りである。広く外部的両建による両義性(ダブルスタンダード)の作為に他ならない。尚それらの偽・紐付グループは街宣やポスティングなど、一見如何にももっともらしい外見を装しているので、細心の注意が必要だ。それは単なる偽装というより、右の意図的両義性(両建)によるダブルスタンダードの一環なのである。言論活動として事実の一端(真)を態と意図的に含むが、それを総じてミスリード(偽)させる認知バイアスに立っている。留意すれば、その瑕疵はあちこちに散見するのが解る。解らないのは、既に「正常性バイアス・確証バイアス」で洗脳(アンカリング)されているからだ。そのバイアスの罠を破る術(すべ)は前記した通りだ。)


今はただ、擬態対抗による二項対立の作為こそ、その「ダブルスタンダード」の最たるものである、とだけ言っておく。
相互にマッチポンプとして機能する、両建>分断のスタンダードだからだ。

そこには意図的に世間的に展開される、「赤子」(真実)と「盥」(虚偽)の背理・二重拘束関係の作為がある。殊に電磁波系の事実周知に、この種の意図的罠の仕込みが顕著だ。

亦よく言われる「偽旗作戦」も、その背理・二重拘束の具体的戦術である。これも通底した両建を前提としなければ不可能なのである。
その委細は次項にて。



「正常性バイアス・確証バイアス」の罠、結果の意図的「ダブルスタンダード・ダブルバインド」の作為は、当然ながら被害者と世間とのバイアスの差異としても極めて顕著だ。

要点は世間の「受け取り方」(認知バイアス)にある。刷り込まれた、その素朴無思慮な善悪二項分断観と、お目出たい予定調和的世界観をどう覆せるかだ。

常に加害側は、その二項分断に即して印象・風評工作を仕掛けてくる。


常に世間は「狂人」を軽侮憐憫し、或いは「犯罪者・テロリスト」は畏怖憎悪する。但し一方無私の「義民」には、それなりに一目置く。

やるなら堂々「義民」として世間にその非を訴えるしかない。事実、この犯罪は亡国の沙汰なのである。
それは「狂人」や「犯罪者・テロリスト」のレッテル貼り・風評工作に嵌らぬ為でもある。

「無私」とは、まず如何なる党派性・宗派性にも立たないことである。パブリックな目的と指標に立って活動することだ


その目的と指標とは、法的活動を主軸にしたその援護を求めるものでなければならない。目的とする裁判趣旨を説明する街宣と、趣旨チラシ同時街頭配布、賛同署名と裁判費用のカンパの受付など。人数が集まれば、関係各所へのデモも。

そして最も重要なのは、情報協力の訴えだ。


堂々法的に対応し、その事実を「世間」に公に訴求する者達を、もはや誰も「狂人」や「犯罪者・テロリスト」とは呼べない。妄想でも後ろめたいことでもない、公然の証拠だからだ。

「法」とはパブリックな言語文脈であり、その適用に於いて、最も厳密性と明証性が求められる。それは自他ともにだ。

加害側は詭弁と無責任な印象操作をその構造的手口とするだけに、それを本質的に懼れるのである。

証拠を捕らせないよう、姑息な手口に終始するのもその為だ。或いは詭弁・風評でひっくり返したり。

故に法的場面でも、現象的にはいろいろ姑息な策謀は仕掛けてくるだろうが。


但しその活動は、決して尾籠な手口論だけの訴求ではない。事の本質は、滑った転んだの被害説明に終始する問題ではないからだ。
甚だ言いにくいが、それは所詮「愚痴」と同じだ。

「世間」は公然不特定に、「愚痴」のみを放言して憚らない者を「狂人」と見做す。その媒介が言葉でも文書でも、それは世迷言なのだ。
例え、語る内容が当事者には耐えがたい、苦しみに満ちた被害事実であったとしても。

寧ろ鬱積の果て、思わず吐露した被害事実の挙げ足を捕って、「統失」に嵌める工作員は星の数ほど存在する。それは被害者ならよく熟知する所のはずだ。
それも世間でのこの憶見を前提にしている。

それでは自ら墓穴を掘る。その作為の所以も、実は右のダブルスタンダードにある。


(*そしてその活動は法的対応に終わらない。それは党派性・宗派性の紐のない真正被害者の活動である。換言して、ごく普通の一般日本人全体のごく当たり前の生存権を掛けた活動だ。「世間」の同意を得られるのも、そこが要点となる。則ち「義民」たる所以である。それはプロ市民どもが作為する「市民運動」とやらとは異なる。その紐の先にいるのは、常に加害側支配マイノリティーである。奴等は為にする、利己的利権のみで動く。あたかも「社会正義」は装うが、社会の公的利益と本質的に相反する立場なのである。しかも裏で通底して。「集スト」が支配構造としてその一環でもあることは、言うまでもない。突くのは総じて其処だろう。)

世間一般の善悪二項分断観と、その予定調和的世界観を翻すのは確かに容易ではない。それもアンカリング付け(洗脳)だからだ。

まして、もともと善悪の由来・本質について、抜本的思科を廻らしたことがない人達がほとんどなのだ。

遂には誰もこの世界の実相など、本当は視えていないのかもしれない。

(*それは心理的洗脳技法のみならず、電子的にもだが。ウィーナーがシステム化した「サイバネティックス」をはじめ、極論としてパトナムが提唱する、所謂「水槽の中の脳」がある。但し要点は、マクルーハンが示すような一種の「情報汎神論」にあるのではないか?ノージックが言う「経験機械」の総体としてのメディア論だ。寧ろ人間工学<社会工学(理科系)の前提には、ボードリヤールやドゥルーズ(文科系)の「シミュラークル/シミュレーション」の二項による、情報の差異的模倣階梯(仮想現実<模擬)での「記号化」があるだろう。既に触れた「バーチャルリアリティー」の問題だ。委細は別項にて。)


だが同時に、世間(人)は自己の生存が脅かされることについては、決して鈍感ではない。その蒙を開く契機はそこしかないだろう。

故に広く「義」(共通認識)に訴えねばならない。同時にそれは一方的な自己「正義」(被害者感情の矜持)の主張ではない。手口論の自己完結が不可なのは結局そこにある。

よしんば人(世間)はそれで同情こそすれ、意味としては閑却する。自分のケツに火がつかない限り、所詮「他人ごと」で終わるからだ。「怖いわねー」の一言で完結する。


末端加害協力者であれば、猶更だ。寧ろそこから情報協力を引き出さねばならない。

人は自己経験に関連する限り、立ち止まって聞耳は立てる。広く世間の実態に昏く、総じて浅薄なのも人(世間)なら、自己経験の及ぶ所、狭く深いのも同じく人(世間)だからだ。

知っているようで知らないないのが世間なら、知らないようで知っているのもまた世間である。当然ながら、それはこの犯罪環境に関しても亦然りだ。

立場上、無関心を装うメリットよりも、自分も危うくなるデメリットの方が上回ると認識すれば、状況は必ず変化してくる。

つまりそこに被害者側も、いい意味でどうバイアスを誘導するかだ。幸か不幸か、社会全体の抑圧的政治経済状況も、来年以降急速に激化してくるはずだからだ。



以上「邦無道」のとき、被害解決への言論活動の現実的展開に於いて、且つは仕込まれた心理的罠を避けるべく、拙くも聊か思う所を述べた。

現状で本当に懼れねばならないのは、カルトでも公安でも、左右のプロ市民でもヤクザでもない。
洗脳に無自覚な被害者の認識経路だ。

必ず加害側工作者(偽・紐付・日和見)は、上記にのみ挑発的アンカリングで被害者の言及を喚起・誘導し、却って下記の経路を隠そうとする。

またそれ自体が認知バイアス(正常性バイアス・確証バイアス)の作為なのだが。
総じてダブルスタンダード>ダブルバインドによる、両義性の罠に落とすためである。

(*不適切な情報表現の作為に左右される「フレーミング効果」(但し、同一の問題を記述の仕方により、その受け手の認知バイアスを操作する。)を熟知した上で、アリバイの為、文飾の改変を繰り返すネットでの工作者がいる。中には個人的に面識がある者もいる。紐付?日和見?それとも・・・・。その手口は典型的な「後出しジャンケン」だ。無耳法師がその拙い文章にあちこち手を入れるのとは、訳が違う。効果を推し量った上での、確信したプロの仕事なのである。まずは挑発的アンカリングで反応を誘い、印象工作でダブルバインドに嵌めるのが狙いのようだ。隠蔽のレトリックが、同時に罠になっている。後は見計らって適当な弁解(言い訳アンカリング)だけ、「後出し」で仕込んで置けばいい。澄ました顔をして、知らぬ顔の半兵衛を決め込むのである。例えば、聞きもしないのに「そんなことありません。考えすぎです。」<関係妄想<統失などと嘯きながら。そう云う以上、特定の対象がいるはずなのだが。(笑)無耳法師がブログ更新を再開してから、確かに一時加害側の動きが激化した。併せて無耳法師への水面下の策謀も進んでいる。その辺りも企画の一環だろう。予想通りだ。挑発への応酬を誘導することにより、被害環境の悪化をも喚起させようとするのである。その辺りはアンカリングの基本マニュアルにすぎない。寧ろ結局全てが背後で通底しているなら、こちらも戦術上、反撃のポイントをどこに置くかだ。同じ敵でも、現象敵と本質敵がある。今無耳法師が応戦しているのは、システムとしての本質敵である。その限り、現象敵はそれに付随する。被害者の脱洗脳こそ急務だからだ。それなくして、前に誰も進めない。その為に唯、現状でできることをするだけだ。まさに無耳法師自身の「言論活動」として。尚、それこそ一言追記しておくことがある。何より、かかる工作者の作為は、一切のすり替え操作であることは言うまでもない。そのすり替え操作によって、彼女乃至彼はそれなりの評価とポジショニングを、工作チームのみならずその活動界隈で獲得する。成功すればチーム内で昇格もあるようだ。弁解(言い訳アンカリング)はその確認作業でもある。狭い被害者活動界隈ではその意義は大きいからだ。)








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加害者及び偽被害者・工作員、被害者で加害者、紐付被害者、うそ被害者、寝返被害者、日和見被害者、一切お断わりです。探りの為、閲覧しに来ないで下さい!

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無耳法師

Author:無耳法師
 

石川県在住。男性。カルト勢力による、集団ストーカー・電磁波犯罪被害35年。内、防犯ネット悪用での違法監視・不法行為被害7年。彼等犯罪者との徹底抗戦を希求している。伴に闘う被害者同志を求める。

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