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集ストの哲学原理

・集ストの哲学原理
以下、聊か「哲学・宗教」的基本類型論を述べる。何故なら、それは集ストの最奥でプロデュースする連中、世界支配層の行動原理だからだ。
凡そ確信した狂った行為には、その規範として、必ず狂った「思想」(行動原理)があるものなのである。

換言して奴等「世界支配層」は、世界を創造する「神」に自らを擬える。哲学用語では、そういう存在を第一義の「叡智因」と呼ぶ。

哲学一般で第一義の「叡智因」(創造者)とは、絶対清浄な「根本因」(純粋霊・霊的総体)として、自ら能動しても、決して受動されない。
プラトン・アリストテレスのそれが、顕著なその一般類型だが。

その基本原理が「霊/肉」の二元分離を前提とした、聖性(霊)の上昇昇華と、逆に現象(肉)の下降充足運動にあるからだ。謂わばその欲望の極地なのである。



故に二次的には、それは「浄(霊)/穢(肉)」の背理的循環運動として作用する。これが段階的・階層的に現象化される、「世界」(宇宙)の「創造」と「進展」として下降運動することは、謂うまでもない。

その際、下降運動とは「生命」力の段階的生起・進展として、現象に顕現する。曰く、肉の充足だ。
因みに段階的・階層的現象世界の差異とは、個別の「浄(霊)/穢(肉)」の比率・割合として顕現される。

為にまずは浄穢(霊肉)の背理的循環を司る(媒介する)、二次的「世界霊」が創造される。ここから一切の現象世界は、産出的に順次(段階的・階層的に)展開される。

プラトン・アリストテレスは、これを「世界霊」(デミウルゴスなど)と呼んでいる。
同様にインド哲学では、これを「プラクリティー」(数論外道=サーンキヤ・ヨーガ)などと謂う。

且つは一切の現象世界は、「叡智因」(創造者)を原型(雛形)として、その形態を段階的・階層的に模倣する。その差異は「叡智因」(創造者)より分有される、上記の「浄(霊)/穢(肉)」の割合に拠るからだ。



そして最終的には、「世界」(宇宙)は霊的昇華の収拾運動に即して、反転運動として「回収」(破壊・廃棄)される。純粋な聖性そのものを希求する、「世界霊」自らの矛盾的自己崩壊として。

そしてその後に顕現する「世界」(宇宙)は、煌々たる清浄な「叡智因」(創造者)そのものの自己充足のみとなるのである。

そこには時間も空間も存在しない、純粋な「永遠」と「全一」のみがある。
つまり、絶対的に純粋不滅な利己的『「自己」愛』そのもの(自我・霊・純粋意識)が。それは原理的に、「神」(聖性)そのものの事でもある。

更にはその成就された聖性が、宇宙原理の「絶対規範」(叡智因)であり、且つは始原の宇宙「生成因」だという所にある。この論理は因果関係が完全に撞着した、所謂「循環論法」(トートロジー)なのだが。



ともあれ万物はこれを第一義の始原の源として、その叡智的本質を分有し、或いは形態・性質を一部コピー(模倣)しながら階層的・段階的差異を以て、順次展開・産出される。
その際、その展開・産出のセンターとなるのが、上記の二次的「世界霊」である。

プラトン(ギリシャ哲学)の「イデア」、ヴェーダンタ哲学(インド哲学)の「梵我一如」での「ブラフマン」(梵)、サーンキヤ・ヨーガ(数論派)の「プルシャ」(神我)などが、その第一義的「叡智因」(生成因)の顕著な類型だ。

それは恐ろしいまでもの、独善的でパラノイアな極限的世界観であり、あくまで病的な「自己愛」の充足そのもののみに執着した、利己的サイコバスの自閉的心象世界である。

そして恐ろしいまでの能天気な無邪気さで(幼稚性)、得手勝手な手前味噌に完全自己完結(自己同一)したそれだ。欲望としての「エゴ」の極地と云えよう。

亦はこれを「聖別」(聖性・神性)とも自称する。
というより、個別の「エゴ」は極限の「聖性・神性」まで昇りきってこそ、その利己性を原理的に完全成就できるのである。



凡そ「哲学」なんて、ろくなもんじゃないのだ。奴等のエテ勝手な「手前味噌」であり、大掛かりな悪行の自己正当化の言説にすぎない。その本質は、言い訳集ストそのもの「風評工作」なのである。

そしてその基礎にあるのは、原始的なまでも徹頭徹尾「魔術的・呪術的世界」でもある。聖性の昇華・下降の運動論だからだ。
聖性の昇華・下降とは、呪術的な「霊/肉」の交換・変換のテクニックに他ならない。
これこそ真に、「統合失調症」そのものの妄想的世界観と云えよう。

その成就の為には、如何なる肉(人間)も生贄として、自らの聖性昇華の媒介(餌)として憚らない。欲望として、凡そ究極の「エゴ」(自己愛)の実現願望である。
寧ろそれこそ、自分以外の全ての生類を生贄としなければ、到底成就不可能な妄想世界なのである。

つまりは、正味この「サイコバス世界」の成就を欲望する輩がいるということだ。掛値なしの本物の「狂人」が。



現在「世界」を牛耳っているのが、他ならぬこの「狂人」どもである。彼等は精神病理的心性として、正味、日々生贄を喰らわなければ、その精神と生命の維持すら覚束ない存在と云える。

亦これを実現成就可能な、世界的権力・経済力・軍事力等を、成程私しているのだ。
奴等は日常のすべてが、恣意的我意だけで押し通せる存在だ。生活の為、誰に頭を下げる必要もない。
黙ってでも入る、一日の金利・日銭だけでも、小国一つを丸ごと買えるような、超絶の大金持ちなのである。我々が千回生まれ変わっても、到底追いつけるものではない。

「そんな神様みたいな力を?」と衆愚どもはいうだろう。事実奴等は「神」として自認し、且つ振る舞っている。そう自負できる能力・背景も実績もあるのだ。
我々とは違って、正味掛値なしに。

そんな連中が、暇に任せて妄想するのは、自己に沈溺しきる独善の極地のような「抽象世界」だ。日々生活に追われる我々とは、思惟の根幹と幅が断絶に違うのである。

換言して奴等が日々考える(企画)こととは、我々の卑近な日常性に基づく思惟を超絶した、文字通り「世界をひっくり返す」ようなことなのである。



「そんなことありえない」、と決めつけるのは、貧弱な想像力しか与えられていない、我々一般ピープルの浅はかな独断と偏見にすぎない。
自分の小さな脳内にある、所与の情報が全てだと思うのは、実は「観念論」の極みなのである。同時に「素朴実在論」の浅薄さの限りだが。

盲目的日常で完結する、偏頗で浅慮な生活知見で、世の中の実相の何を知っているというのだ?実際は芋の煮えたもご存じないくせに。だから無分別に、集スト加害なんぞに取り込まれるのだ!



というより、我々の脳内は既に、一定の方向・枠と中身で洗脳されているのである。当の世界支配層によって、設えられた生活規範の枠や教育、テレビの加工情報で。
凡そ生の「現実」など、被支配者の誰も見てはいないのだ。いや、見せられてはいない。

生の「現実」の方は、そんな偏頗で脆弱な一般情報を常に超えている。
世界支配層の方こそ、一面超絶の夢想家だが、同時に冷酷残忍の極北のような現実主義者でもあるからだ。
つまり、その超絶夢想(妄想)を現実化できる力(権力・財力)を、ごく当たり前のように持っているのだ。


その際、権謀術数(陰謀)を手段というより、自己目的(同一性)として欲望する。それ自体が上記の運動論として、聖性の交換・変換の呪術だからだ。
故にその手法(修法)は、常にマッチポンプの手口を執るのである。

無論「集スト・テク犯」も、この「魔術・呪術」(原始心性)の顕現の一環である。謂わば思想的(原理的)問題として。
寧ろ逆に、現実には「呪術」など施術不可能だからこそ、心理的ノウハウやテクノロジーを使うのである。古くは催眠術や麻薬・薬物を。



そこで話を哲学・宗教的、或いは思想史的文脈に戻せば、以下の通りである。

ギリシャ哲学ではイオニア諸派の自然論、プラトンのイデア論と二世界説、アリストテレスの「形相/質料」の二項関係論、ストア派やエピクロス派の宇宙論、そして新プラトン主義の流出説等。
これらは皆、上記の「霊肉二元論」の基本類型(パターン)を一様に世襲している。

或いはインド哲学の「梵我一如」(ヴェーダ・ウパニシャット)、サーンキヤ・ヨーガ(数論外道)の二世界説と流出説、六師外道や勝論派(ヴァイシェーシカ)の自然論等も亦然りだ。

東アジア(支那)での儒教の祭天、道教の練丹術。
更には中央アジアから西アジアを通底する、アーリア系(イラン系)のゾロアスター教、ミトラ教、ズルヴァーン主義。
無論、インド亜大陸に南下した、同じくアーリア系のヴェーダ教(バラモン教)をも含めてのことだ。

亦、先のギリシャ哲学の濫觴たる、オルフェウス教、キュプレ教と云ったギリシャ密儀。
ヘレニズム期のメソポタミア・地中海世界でのグノーシス主義、ヘルメス思想の占星術と錬金術、エジプトでのイシスの「死と再生」の密儀、そしてマニ教の生起。

更にはキリスト教での最初の根本分裂(異端論争)である、東西シリア教会での聖性論(単性論・両性論)や、ネストリウス派の生起まで事は連続する。
つまりキリスト教こそ、これら密儀宗教の正嫡子なのである。



これらは原始心性である、人類学的「供犠・密儀」を基とすることは、既に記した。
原理として、必ず供犠の生贄を外部に獲るのだ。その他者の生贄(肉)を媒介として、霊の総体たる神一般に「贈与」しては、霊・肉の交換及び、ひいては自らの霊的昇華、聖性への変換を欲望する訳だ。

そして密儀とはこの供犠を、己身で処理した心霊術(祈祷)である。当然、それはある種の神聖・全一の宇宙論を前提とする。
古代「哲学」とは、元来その密儀体系の解説マニュアル・奥義書一般であり、またそれ故に神聖・全一たる、聖性の範疇論(概念論)なのである。

故に古代「哲学」の特徴として、概念論・心霊論・宇宙論は一般に三位一体であり、共に「聖性の秘儀」(存在の秘密)の側面に即した、明かさるべき、或いは隠蔽さるべき、全一の聖なる「智慧」の属性なのである。

それは古代オリエントでは、ヒッタイト、スキタイといったアーリア系のみならず、セム系、ハム系のいずれを問わない、原理としての「血のオルギア」(供犠)の一環と云えよう。

古代オリエントの精華こそ、かのヘレニズムに他ならない。而してヘレニズムとはシルクロード伝播である。故にシナどころか半島、列島までその余燼は及ぶ。

大まかウラルアルタイ系のトルコ系、モンゴル系、ツングース系、亦そのいずれを問わない。
当然「日本人」のアイデンティティーに、論は及ぶことになる。所謂「在日問題」もその裏面にあることだ。






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プロフィール

無耳法師

Author:無耳法師
 

石川県在住。男性。カルト勢力による、集団ストーカー・電磁波犯罪被害35年。内、防犯ネット悪用での違法監視・不法行為被害7年。彼等犯罪者との徹底抗戦を希求している。伴に闘う被害者同志を求める。

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