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反撃の糸口としての「価値相対主義」

不佞者是無耳法師也。無聞耳之志哉。唯欲振降魔之剣於草賊盗賊官賊等外道輩。夫勿憚報仇事。唯々謂以己血肉可償其咎而耳。
不佞はこれ無耳法師なり。聞く耳なしの志(こころ)哉。唯降魔の剣を、草賊・盗賊・官賊等の外道輩に振るはんと欲す。夫れ、報仇を憚ることなかれ。唯々、己が血肉を以てその咎を償ふべしと謂はんのみなり。


・反撃の糸口としての「価値相対主義」
「集スト」(アンカリング等)は極めて心理主義的手口を使う為、被害者の認識をその主観性の中に閉じ込めようとする。奴ら加害者どもはその「主観性」に付けこんで、我々の訴え(思科)を「妄想」と片付け、あわよくば「病院」に送り込もうとする。或いは主観性故にどうとでも謂える、解釈の多様性に乗じた所の、如何にも尤もらしい「言い訳」は用意している。

憚りながら「主観的で何が悪い?」のだ。まず以て、それはお互い様な話だ。どう思う(思科)かは、認識上の「価値」の問題である。即ち主観性だ。つまりはそれが、法律用語で謂う「価値相対主義」なのである。それを裏付ける、その認識の客観的妥当性とは一応別の話として。
無論、加害側はこちらの認識を思科として否定するだろう。但しまず以て両者の価値(思科)は、是非ともに「等価」(相対主義)なのである。だからこそ事の是非を、公判で争うのではないか?
このことは、原告(検察)・被告(被告人)双方対等な係争関係による「当事者主義」と、その係争関係に即した、一方に偏らない公正な「実体的真実の発見」と謂う、刑訴法の理念・条文と構造的に対応しているのである。

被害者として、その犯罪被害に対してどう感じたかどうかは、実の所、司法上極めて重要な意味を持つ。当然、犯行そのものの認識に於いても。このことは民事でも同様である。
まして侵害される法益自体が、自由や名誉など抽象的で目に見えない、個人の内面・主観性に属することも多いのだ。

無論、その主張(思科)をそれとして裏付ける、認識の客観的妥当性と証拠が必要である。要はその確保の問題である。それには一つの行為・事実(犯行)に対して、認識の客観的妥当性を確保する為に、価値として同質の解釈をしうる人間(複数)が、是非にも必要であることが解るだろう。証拠・証人もさることながら、寧ろ共闘して事に当れる同志が。

幸いにも奴らの手口は、一定のマニュアルに基づくが故に、被害者間の認識(価値)は、概ね相互に互換可能である。一事に価値を同じうして、証言・証拠提出ができる第3者がいれば、「妄想」云々のレトリックは、それだけでも粉砕できる。即ち、本当に日夜闘っている被害者と一緒ならば。

(*つまり闘う気(街宣等)とその用意(証拠確保)がない被害者は、例え真実この被害を受けていても、所詮は「無縁の人」なのである。以て「偽被害者捜し」(内ゲバ)のみに狂奔する方々にも、一応釘を刺しておく。所謂「偽被害者」などは、態々捜さなくとも、上記の過程で自ずから排除されていくのである。)

我々被害者は、何も「UFO」や「ゴジラ」の加害を訴えているのではないのである。動機もアヤフヤな「集団いじめ」や、カルトによる「無差別殺人テロ」も、もはや日常茶飯の世の中だ。法的類型として、同様な事案を思科するにすぎない。(但し前述のように、刑法体系各条の構成要件に落とし込んだ上で。)その思科自体、どこが「妄想」なのか?

而に相手は詭弁で人を陥れることに長じた、情報操作のプロである。法的闘争以前に、奴らとの一種の「思想戦」(哲学論争)を日々強いられる。「印象操作・風評工作」など、その典型だ。だが詭弁である以上、その「思想」は矛盾と撞着に満ちている。換言して「ご都合主義」だ。但し顧みて他を謂うが故に、却ってそこを突くことも可能と考える。

救護を求めて訴えても、助けてくれる所なんかどこにもない。当の官公署こそ賊の巣窟である。その事は被害者なら、痛いほど熟知しているはずだ。訴えるのは「救護」を求めてではない。「闘う」為である。あくまでそこは「戦いの場」なのだ。
ともあれ官公署などへは、「独り」で、まして「不用意」に行かないことである。行くにはそれなりの「目論見」と「用意」が必要である、とのみ今は述べておく。

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プロフィール

無耳法師

Author:無耳法師
 

石川県在住。男性。カルト勢力による、集団ストーカー・電磁波犯罪被害35年。内、防犯ネット悪用での違法監視・不法行為被害7年。彼等犯罪者との徹底抗戦を希求している。伴に闘う被害者同志を求める。

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