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自己被害の概略と思科する加害者像  生贄の論理④

・自己被害の概略と思科する加害者像 生贄の論理④
ペリマリさんは明言してはいないが、「生贄」の作為とは宗教学者や文化人類学者の謂う、「死と再生」の供犠・密儀の再現・反復なのである。
一般に聖性(霊力)とは「神話」の再現として、常に反復(模倣)される。その前提として聖性(霊力)とは、時間的推移で劣化するということが一つある。
下世話で云えば、所謂「気(魂)が抜ける」のである。抜けた分、逆に罪障を負う。即ち「穢れ(気枯れ)」だ。

自らの聖性(霊力)で、国家を支配する古代の神聖王や聖職者達にとっては、それは死活問題だったのである。放置すれば、その穢れはやがて国土全てに及ぶ。為に責任上、何らかの霊力の回復処置が、常に制度的に希求されたのである。
霊力のリセット(再生)の為、古代オリエントでは、暫し象徴的「王殺し」が行われた。世界創生神話の再現・反復(模倣)として。それは穢れのない、始原の時間にリセットされることでもある。

霊的に再生するためには、原理的に一度死なねばならない。少なくとも肉体的には。それだけに、本人がその任に当たることだけは、絶対に忌避されねばならないことが解るだろう。常に「代役」が必要なのだ。換言して「生贄」が。
古代エジプトでは、毎年新年の祭りの折、代わりの「偽王」を立ててこれを密殺した。以て古代オリエントの神聖王・聖職者達は、自らの聖性(霊力)を再生・保持したのである。それは、常に「生贄」を媒介としてのみ成就するのである。

因みに時間的推移で劣化する聖性(霊力)とは、それが生身である限り、霊が肉の束縛を受けるということを意味している。また霊と肉が、相対・対立することも。
そこには「霊/肉」二元を前提とする、肉の毀滅と霊の昇華を計る、相互運動があると云える。換言して、希求する聖性(霊力)の交換、或いは変換のシステムがあるのである。つまり、霊的な自己同一性・恒常性を欲望したそれだ。

それは決して朽ち果てることのない、「聖なる永遠の自己」を妄想することである。その姿は、暫し「永遠の幼年」(童形)の形で象徴される。古代の神聖王は、この種の霊的「若さ」を要求されたのである。
その姿は「妄想」故に、必ず悪夢にも似た、悪魔的狡知を使てのみ成就されるだろう。

(*「死と再生」の密儀については、宗教学のエリアーデ。「王殺し」では文化人類学の祖、フレーザーなどを参照されたい。但しこいつらは基本的に、皆「向こう側」の連中・ポチである。その点は留意して扱われたい。蛇足ながら付言する。)

つづく
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無耳法師

Author:無耳法師
 

石川県在住。男性。カルト勢力による、集団ストーカー・電磁波犯罪被害35年。内、防犯ネット悪用での違法監視・不法行為被害7年。彼等犯罪者との徹底抗戦を希求している。伴に闘う被害者同志を求める。

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