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二律背反の罠の背後にあるもの

・二律背反の罠の背後にあるもの
「二律背反関係の罠」については、前項で述べた。分断と相互マッチポンプによる、世論誘導と隠蔽のテクニックである。それは所謂「世間常識」の大枠でもある。

所で二律背反敵思考とは、大概の人間の素朴な判断形式の基本なのである。
政治宗教レベル(世界観)どころか、日常生活での基本的思考スタンス・認識スタイルと云っていい。
所謂「善悪」(良し悪し)を二項分別する、判断形式の基本だからだ。

それだけに、その背反する二元・二項的思考形式それ自体はともかく、その内容が意図的に操作されたものだとすれば、人は容易にその罠には気づかない。
あたかも、もっともらしい二項対立を、鐘や太鼓で演出して見せられば。

即ち相克する、背反関係の二項を、巧みに設定し相互に機能させる、隠された第三項が潜在するということだ。
それが、相互マッチポンプの能動主体である。つまり、実態は三支構造なのである。

双方に火を点けて、煽り、得をするのは、誰だ?
常にそういう観点(認識論)が必要であろう。

この構造を哲学用語では、「弁証法」と呼ぶ。所謂「正・反・合」の三支だ。隠された「合」(目標到達点)に即して、「正・反」は暫定的背反関係にある。
寧ろ相克矛盾した背反関係故に、その双方を統合した、より高次の論脈に導かれざるを得なくなり、隠された第三項に誘導されるのである。

要は、結論は既に用意されているということだ。「二律背反関係の罠」と云っても、この隠蔽された三支構造に及ばなくては、話は半分になる。


因みに哲学史で「弁証法」と謂えば、すぐヘーゲルやマルクスのそれが脳裏に浮かぶ。実は二人とも、フリメ・イルミ人脈に属する連中なのである。
完全に「向こう側」の人間だ。而してそのスポンサーは?

それどころか、その濫觴はルネサンス期にまで遡れる。
「ルネサンス」と謂えば、一般にはギリシャ・ローマの「古典復興」とされる。但しその「古典」の内実とは、古代の「魔術的智慧」(光明思想)の復興なのである。
その代表類型こそ、かの「カバラ」である。ピコやフィチーノの体系が著明だ。

その体系(カバラ)は「生命の樹」で象徴される、霊肉の上昇・下降運動として表現される。10(隠された「智慧」を含めて11)の霊的ポイントに於ける、正・反(霊肉)の蛇行運動(弁証法)をなぞりながら。
それは古代(古典)の「新プラトン主義」を基礎理論に置く、霊性(聖性)の象徴的運動論だ。

その運動論こそが、実は近代弁証法(ヘーゲル・マルクス)の理論的基礎・ネタ元なのである。
同時に、それは政治経済的にはリベラリズムや社会主義など、近代思想(啓蒙主義=光明思想)全般そのものの大本だ。それ故にこそ、また各種のオカルト思想の震源でもあるのだ。

(*そのキーマンとして、実はピコやフィチーノ以上に重要な人物に、ほぼ半生を牢獄で過ごした、かのカンパネラがいる。ドミニコ会修道士にして、錬金術師・占星術師(カバラ)。そして著明なユートピア論者(空想的社会主義者)である。故にその著作「太陽の都」は、「啓蒙主義」の古典でもある。霊的智慧の絶対的指導者の下、万民が完全な機能的奴隷となる超越世界だ。ある意味カンパネラこそ、ルソーやマルクス、ロベスピエールやスターリンの原理的先駆者である。この側面については、さすがに保守自由主義者、中川八洋がよく詳解している。但しより重要なのは、禁欲的カソリック(ドミニコ会)でオカルティストであるが故に、必然的に専制的社会主義者(共産主義者)である総合的焦点なのである。残念ながら、中川の視野はそこまで及ばない。いわんや左翼知識人には、その論点さえまるで理解不能のようだ。)

近代でそれらが交差する要にあるのが、所謂「フリメ・イルミ」に他ならない。ワンワールド(国際金融・共産主義・オカルト・シオニズム等)の基礎教義である。

何より、歴史的に西洋思想の表カンバン(顕教)である、新旧キリスト教の裏思想(密教)として、その成立期から関わってきたのが、プラトン・アリストテレスや新プラトン主義に代表される、当の古代的「魔術的智慧」(光明思想)なのである。
人智の限界を超えた、超越的聖性を欲望したそれだ。
「ルネサンス」とは、他ならぬその「復興」(表面化)だということだ。もとより、それ自体が作為的「弁証法」だが。

更には、「霊肉二元」に於ける、生贄の供犠・密儀を政治支配の根底に置く、ユダヤ・欧米人の野蛮な原始心性(聖絶思想)そのものが、事の表に現れている。
超越的聖性(神)の顕現とは、必ず「肉の毀滅」と「霊の独存」を前提とするからだ。即ち、「霊/肉」の二項対立と、その止揚ということだ。

但しその際「肉の毀滅」とは、実際には他者の「血肉」に変換される。所謂「生贄」だ。当然ながら、術者本人が「死ぬ」(肉の毀滅)訳にはいかないからだ。
故に原理的に変換されうる、対立物(他者)が、常に必要なのである。換言して、外部に屠るべき必要「敵」が。
所謂「弁証法」(カバラ)が、その作為と正当化の為に作られた論理の一環だと知れる。もともと、極めて利己的で「魔術」的な論理なのである。

そこに奴等が妄想する、超越者の「聖性」の価値を置くのだから是非もない。あたかも、サルに先祖帰りしたように、露骨且つ恥知らずに。
それらは全て、近世・近代欧州「古典」(魔術的智慧・光明思想)が範を置く、古代オリエントに思想的濫觴が求められる。


「フリメ・イルミ」とは、そもそもその探求運動だったのである。思想的のみならず、政治経済的にも。
だから、19世紀・20世紀欧州金融資本の植民地支配(所謂「帝国主義」)と暗に連動して、この運動は推移してきた。

その欧州金融(国際金融)の植民地支配(「帝国主義」)が頂点に達したのが、寧ろ戦後米・露(旧蘇連)の作為的「冷戦体制」(二項対立・二律背反)であり、今は米・中対立の作為に移行している。
ある意味、国際金融の理想政体こそ、旧蘇連・現北鮮だったのだが。逆に現在では、米の専制化・共産化(9・11以降のフェーマ体制)として、その路線は推進されている。
中(シナ)の資本主義化(国際金融直接支配)に呼応するように。

つまり、それも「弁証法」(カバラ)だということだ。「冷戦崩壊後」、一方の共産主義が壊滅したからこそ、その体制をもう片方に移さねばならないのである。つまり、端から「双方建て」なのである。
寧ろ、移す為に一方を崩壊させたのである。「正・反」を移行(止揚)して「合」とするためだ。
一部の特権的人間(ヒトモドキ・獣)が、生贄の血肉を媒介に、至高の「聖性」とやらを欲望・会得するために。

現在、世界中で展開されている、集ストでの衆愚「取り込み」も、概ねその路線に即していることは、言うまでもない。日本でのそれも、間違いなくその一環だということだ。
だから必ず、政治的・宗教的「左右」の煽り(マッチポンプ)で、各被害者を翻弄するのである。即ち、「正・反」(左右)の作為的「仕込み」で。

(*また、現在進行中の米・中の二項対立(二律背反)にしろ、その裏で蠢く弁証法的第三項の策謀が、まさに因縁の中東(オリエント)で色々仕込まれていることこそ、極めて留意すべき要点と云える。寧ろ、表だって「乱」を使嗾できない先進国こそ、「集スト・テク犯」という、支配・乗っ取りの為(目的)の「手口」を使うのである。その「目的」の方が、奴等の「動機」として、その「手口」(手段)より重要なのは、また言うまでもないことだ。大概の「被害者」は、加害目的と手段の遡及が転倒しているが。このことは、「問題解決」の為にも、重要な認識論的論点だと、無耳法師は思科する。また部分の一般化でミスリードする、「陰謀論者」も、別の意味で転倒しているのは、言うまでももない。)

ともあれ、集ストで、これらの勢力が関与するのは、その「教義」的にも、歴史的にも、極めて所以があることなのである。二律背反関係を弄ぶ、弁証法(カバラ)の魔術(詐術)を駆使して。
亦それが、集ストの「加害手口」の方法論の基礎でもある。その目的から手段は、自ずから導かれるのである。その逆ではない。


(*ピコやフィチ-ノの体系は、厳密には古代オリエント由来のヘルメス思想・錬金術を中心とする、キリスト教カバラとも呼ばれるそれである。自然論的宇宙論・生命論としての傾向がより顕著である。それとは別に、旧約聖書の象徴的解釈を中心とした、ユダヤ教カバラがある。その密儀書「ゾーハル」が著明だ。両者は相互影響関係にあり、ルネサンス期には一連の思潮として、推移するに至る。前者の自然論的宇宙論・生命論については、伊宗教学者のクリアーノの著作がある。詳しくはその著作、「ルネサンスのエロスと魔術」を参照されたい。彼は宗教学者エリアーデの弟子で、エリアーデはインド哲学者ダスグプタの弟子である。この辺りの人脈は、実は甚だキナ臭いのだが。クリアーノは、フリメ勢力と思しき連中に集ストをくらった上に、大学内で暗殺(刺殺)されている。守られた御用「アカデミズム」の世界でも、無自覚に「虎の尾」を踏むことは珍しくない。即ち加害者が被害者に、いつ転落するか解らないのだ。その人の立場を選ばずに。)
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プロフィール

無耳法師

Author:無耳法師
 

石川県在住。男性。カルト勢力による、集団ストーカー・電磁波犯罪被害35年。内、防犯ネット悪用での違法監視・不法行為被害7年。彼等犯罪者との徹底抗戦を希求している。伴に闘う被害者同志を求める。

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